変わりゆく町の「今」を描き、残していきたい
かつて栄えた鉱山町の名残が町の至るところに見られる、朝来(あさご)市生野町。ここで生まれ育ち、一度は離れたものの、Uターンをした松本知佳さん。豊かな自然と歴史に育まれた生野の風景を瑞々しい感性で切り取っています。町の姿を描くことをライフワークにしたいと話す松本さんに、画家になったきっかけや生野町の魅力を聞いてきました。
現在に至るまでの経緯を教えてください
もともとイラストレーターになりたくて、地元の高校卒業後に大阪の美術大学へ進みました。在学中は風景画ではなく、アクリル絵の具で海をモチーフにしたファンタジーな絵ばかり描いていましたね。卒業後は地元に帰らず、そのまま大阪で就職し、青果物の包装資材を手がける会社でパッケージデザインの仕事に従事した後、Uターンしました。そこから生野町内にある印刷会社でグラフィックデザインの仕事に就き、商工会議所や地元企業のチラシ制作に携わり、改めて地元について知る機会に恵まれました。2年前から画家としてスタートし、フリーランスでイラストやデザイン制作も行っています。
画家になったきっかけは?
学生時代から知人が活動している音楽バンドのCDジャケットやチラシのイラストとデザインを制作していたのですが、社会人になっても続けていたんです。その中で、ピアノとクラシックサクソフォンのユニットを組む知人の制作物を手がけていたのですが、あるとき「音楽と絵を融合させたライブイベントをしよう」と提案されました。私が描いた生野の風景画からインスパイアされて作った曲を披露するというもので、そのとき風景画に取り組んだのが始まりです。会場は生野町にある昭和初期に建てられた邸宅レストランで、私の絵を展示しながらのランチコンサートにはたくさんの人が見に来てくださいました。
それまでに風景画を描いたことはあったのでしょうか?
小学生の時、夏休みの課題で描いた以来です。当時は楽しいと思ったことはなく、むしろ大の苦手でした。でも、大人になって大学で学んだアクリル画の技法を生かしてみたかったのと、一度は離れたことで気づいた生野の美しさを描いてみたいと思ったんです。そこで描いた景色のひとつが、幼少期に住んでいた家の裏庭からの眺めでした。
どういう風景ですか?
口銀谷(くちがなや)と呼ばれる地域の川沿いの風景なんですが、市川にかかる姫宮(ひめみや)橋やアーチ型の石垣が連なった独特の景色です。大正時代に生野銀山から産出された鉱石を運搬していたトロッコ軌道跡や農業用水を送っていた水管橋も見えます。鉱山町の面影が色濃く残る場所で、子供心に不思議と惹きつけられていました。
大正9年(1920年)に完成した生野鉱山本部から旧生野駅までを結んでいたトロッコ軌道跡。現在は遊歩道として整備されている。
その風景を描いた作品について教えてください
「きらら」というタイトルで、雲母という鉱石の別名にちなんで付けました。雨が上がった後に山霧が沸き立っていく美しい春の景色を描いています。人の姿を描いたプラスチック板をアクリル画の上に貼り付けているのですが、これは鉱山で亡くなった多くの方の幽霊です。美しい景色の中に見る生野町の歴史の重さや命の儚さをこの作品で表現しました。
この作品は2021年あさごアートコンペディション色彩ターナー賞を受賞。現在は地元の大手企業のロビーに展示されている。